戦後日本の映画界を引っ張ったのは、紛れもなく黒澤明監督とトップスターの三船敏郎さんです。
『羅生門』『七人の侍』等が有名な作品ですが、海外の映画にも数多く出演し、「世界のミフネ」と言われるほど国際的なスターに登りつめました。
三船プロダクションの設立に加え、ブルーリボン賞の主演男優賞をはじめ、今まで数多くの受賞歴があります。
そして、三船敏郎さんが62歳の時に生まれたのが、三船美佳さんですが、お母さんが誰なのか気になるところです。
https://cinema.ne.jp/recommend/mifune2016050110/より引用
三船敏郎の半生
まずは三船敏郎さんの半生を振り返ってみます。
三船敏郎さんの父は徳造 母はセンで、徳造さんは貿易商、写真技師、「スター写真館」の経営者だったようです。
父の父(敏郎さんの祖父)は漢方医を開業されていたようですが、訳あって徳造さんは医師の跡を継げなかったようです。
母であるセンさんの実家は新潟県の旗本だったようです。
旗本とは
旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。
ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC)より引用
三船敏郎さんは長男で、あとに次男の芳郎さんと長女の君子さんがいます。
昭和15年、徴兵で兵役につくことになりますが、先輩の大山年治(東宝撮影所撮影部所属さんとの出会いをきっかけに、自ら俳優の道に進むことになります。
●『銀嶺の果て』で役者デビュー
〇主な作品
『野良犬』
『羅生門』
『七人の侍』
『宮本武蔵』
『無法松の一生』
『用心棒』
『椿三十郎』
『赤ひげ』
『黒部の太陽』
『連合艦隊司令長官 山本五十六』
『風林火山』
『新選組』
『人間の証明』
『男はつらいよ 知床慕情』
『千利休 本覺坊遺文』
など様々な作品に出演し、黒澤明とともにその名が世界中に知れ渡った三船敏郎は世界中からオファーが舞い込むようになり、世界のミフネと呼ばれるようになります。
また石原裕次郎とともに制作した「黒部の太陽」や、勝新太郎との「座頭市と用心棒」も、三船敏郎の存在なしには成功しなかったでしょう。
三船敏郎の妻は?
三船敏郎さんは、新しい時代の幕開けを予感させた1950(昭和25)年に、東宝第1期ニューフェイスで同期だった女優の吉峰幸子さんと結婚をしました。
http://www.officiallyjd.com/archives/754564/20180817_mihune_09/より引用
そして長男の三船史郎さんと次男の武志さんが誕生します。
順風満帆と思われた中で、1971(昭和46)年に1回目の離婚騒ぎが持ち上がり、話題となりました。
夫婦仲の良かったお二人ですが1970年代に入ると倦怠期というものに入り、幸子さんは三船さんの酒乱や暴力に悩まされ、ついには三船敏郎さんがロケ先のスペインで、高級クラブのホステスだった女性を同行したことに腹を立てた幸子夫人が、二人の子供を連れて東京の成城の家を飛び出してしまうことになります。
一旦は家に戻った幸子さんと子供2人ですが、翌年の1972(昭和47)年に再度家を出て行った幸子夫人が、東京家庭裁判所に離婚調停を申請し、雲行きが怪しくなりました。
法律上の夫婦というだけで三船敏郎さんと吉峰幸子さんは別居生活を送ることになりますが、この間に三船は女優・喜多川美佳と交際し、1982年、敏郎62歳の時に女の子が誕生します。この女の子が三船美佳さんです。
美佳ってお母さんの芸名を受け継いだのですね。
ちなみに三船美佳さんのお母さんの喜多川美佳さんは芸名であり、本名は大野照代と言います。
本妻である幸子さんは、三船さんから離婚を突き付けられたものの、とうとう離婚届に印鑑を押さなかったようです。
最初は幸子夫人が「別れたい」と主張したのに対して、三船敏郎さんは「俺の方から別れてやる」と宣言したにも関わらず、幸子夫人が「別れない」と言い出すようになったのは、愛人である女優の喜多川美佳さんをそのまま妻の座に居座らせるのも面白くないと感じたのでしょう。
https://entertainment-topics.jp/82476より引用
1992年、三船敏郎さんは心筋梗塞に罹患し、これを機に三船美佳さんのお母さんである喜多川美佳さんと別れることになります。
その後、本妻である吉峰幸子さんとよりを戻し、長男と次男の4人で晩年を送ることになります。
夫婦仲良く暮らしていたものの1995年に幸子さんすい臓がんでが死去。
これを機に敏郎さんは認知症に陥ります。
そしてその2年後の1997年12月24日に三船敏郎さんが死去。
享年77歳でした。
三船敏郎の内縁の子供が三船美佳
先述しましたように何としても幸子夫人と別れたい一心の三船敏郎さんでしたが、裁判で離婚を勝ち取るまでには、どうやら至らなかったようです。
1976(昭和51)年に三船敏郎さんは慰謝料6億円を提示しましたが、幸子夫人は断固として受け付けず、正妻の座を死守します。
そんな中で、1982(昭和57)年9月に、当時62歳だった三船敏郎さんと34歳の喜多川美佳の間に生まれた女の子が三船美佳さんであることも先述しました。
三船美佳さんは後に16歳の時に高橋ジョージさんと24歳の年齢差を超えて結婚します年齢差を超えて結婚したことが話題になりましたよね。
高橋ジョージと三船美佳の離婚理由はモラハラではなかった!内容がやばい!二人に子供の画像あり。
娘の美佳とはかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったといいます。
三船美佳さんが後に24歳歳上の高橋ジョージさんと結婚し、喜多川美佳さんは娘夫婦と暮らすことになります。
喜多川美佳さんと高橋ジョージさんは10歳違いと年齢も近く、娘夫婦との生活が楽しかったのでしょうか。
https://lime7.fun/1715.htmlより引用
https://xn--u9j5h1btf1ez99qnszei5c8ws.com/mihunemika-kuzu/より引用
三船敏郎の子供は何人?
三船敏郎さんの子供は全部で3人ですが、概要は以下の通りです。
https://www.pinterest.co.uk/pin/747597606875627881/より引用
1950(昭和25)年生まれの長男の三船史郎さんは、俳優であり、お父さまの三船敏郎さんが設立した三船プロダクションの代表取締役社長です。
https://matome.naver.jp/odai/2145057917180834801/2145058512886327503より引用
成城大学卒業後、三船敏郎さんがドイツのミュンヘンで開店したレストランの支配人を務めていた経験もあるほどです。
三船敏郎の子供は3人。長男、次男の三船史郎と三船武志と長女の三船美佳。長男次男と長女の美佳は異母兄弟!
1956(昭和31)年の生まれの次男の三船武志さんに関しては、ほとんど情報がありません。
芸能界とは関係のない世界に進んでいると言われ、お父さまへの追悼のコメントの内容からすると、思慮深く堅実な人生を送られていると思います。
まとめ
三船敏郎さんの内縁の妻であり、三船美佳さんの母である喜多川美佳さんは、元タレントで女優です。
1969(昭和44)年に三船プロダクション製作の映画 『赤毛』に初出演し、後に映画や『水戸黄門』等時代劇を中心にテレビドラマに数多く出演しました。
2018(平成30)年の8月放送の日テレ『ダウンタウンDX』親子ゲスト企画で、娘の美佳さんと親子揃って初めてのテレビ出演を果たしました。
ほとんどの人が、三船美佳さんのお母さんの事を知らないと思うので、その存在を知って貰うきっかけになったかもしれません。
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